う、ういじゃない!

=LOVE / 野口衣織ちゃんと大場花菜ちゃんのことが大好きでたまらないヲタクの独り言

役として生きるということ ~舞台「フルーツバスケット 2nd season」観劇感想 ~

 

 

舞台 「フルーツバスケット 2nd season」

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推しメンが舞台に出ることになった。

予想もしていなかった出来事だった。

 

 

いーちゃんが役者として舞台に立つ姿を見るのは 実に5年ぶりのこと。

時は巻き戻って あにてれコラボの2.5次元舞台「ガールフレンド(仮)」にイコラブがグループとして出演したのを最後に、推しメンの舞台役者姿を目にする機会はなかった。

 

一体どんな時間が流れて、それを目にした自分の中にどんな気持ちが流れ込んでくるのかなんてあまりに久しぶりのこと過ぎて全く予想もできなかった。

 

 

今回舞台の原作となる「フルーツバスケット」は恐らく誰しもが一度作品名くらいは耳にしたことがあるであろう名作少女漫画だ。

 

私も勿論例外ではなく、アニメ・ゲーム・漫画とはほぼ無縁な人生を歩んできたとはいっても作品名くらいは耳にしたことがあったし、書店で漫画本の表紙を目にしたことがあった。

ただ、どんな話なのかとか、なんでこんなに人気があるのかとか、そういうことには無頓着であり無知だった。でも、今回大好きな推しメンが出逢わせてくれたのはきっと運命だから。今の、これからの自分にきっと必要なものを与えてくれるんだと思ったから。そういう謎の確信だけはあった。

 

全部のお仕事に対して誠実である推しメンの心持が大好きだから、きっと、いや、確実にこの舞台仕事だって真正面から向き合うんだろうなという信頼があった。

だから、私自身もそんな推しメンの誠実な仕事への姿勢を大切にして、触れたことがなかったこの作品をしっかり噛み砕いてから舞台期間にのぞみたいな、と思ったわけである。

 

 

まぁ、なんせ話が重い。

そして長い。

 

 

漫画は単行本にして全23巻

 

あらすじはもう私なんかがこの場で語るまでもなく、既知な方がとっても多いだろうし、もっともっと深くて分かりやすい解説媒体が無数に存在する。

だからこそ敢えて特筆は避けるけれど、私が今ここでそれを選択したように、舞台「フルーツバスケット 2nd season」も同じような導入であったのが印象的だった。

 

名作を”演じる”ということ

 

初日公演の幕が上がり、まず初めに驚いたのはあまりにも簡素な舞台装置。

装置というよりもはやステージ”のみ”。

 

前説もなく、思い返してみれば透だって「お久しぶりです」と笑顔でそこに立ち、唯一ある1st seasonの回想といったら草摩の家に居候することになってからの日々の簡素なまとめと猫憑きの夾が本当の姿として恐ろしい姿に変身し、恐怖に慄きながらもそっと夾を抱きしめる透のシーンが冒頭にあるくらい。

 

もちろんこの舞台の銘打つ「2nd season」がアニメ放送としての冒頭にリスペクトの気持ちで準じているのもあるだろうけど、製作者側の良い意味での”強気”と圧倒的自信を感じた。

連載開始から25年が経っても尚、時代の流れの中で埋もれることなく人気であり続ける原作のネームバリューに圧倒的信頼があるからこそ、「皆さん、わざわざ説明なぞせずともご存知でしょう?」と言わんばかりの余分な前説を削ぎ 物語の世界観に重きを置いた導入だったように思う。

アニメのオープニングがテレビ画面からそこに流れ出してきたように滑らかにオープニング、キャラクター紹介があり、気づいたら本編が始まっているのだ。

 

そういうそこかしこに感じる製作陣の自信が透けるたび、この夏いーちゃんがとあるアニメのドラマ化仕事に挑んでいた時のことを思い返した。

原作が広く愛されている作品であればあるほど、根強く熱心な愛好家を数多く抱えている。フルバは漫画としての原作のみならず、繰り返しアニメ化され、幾度となく舞台作品としても上演されているのだ。

著明な実力俳優たちがその役の実演に名を連ねているし、期待を裏切らない好演が実績として残されている。だからこそのこの「2nd season」の舞台化なのである。

 

前述したアニメのドラマ化において、原作ファンの愛をさらに温めることに成功したいーちゃんの好演は記憶に新しかったけれど、今回フルーツバスケットという作品自体の持つパワーが計り知れないからこそきっともっと険しい”何か”が待ち構えていてもおかしくない状況ではあったし、今回この御仕事でいーちゃんに声がかかったことはとても名誉なことであると同時に プレッシャーだって計り知れない規模だったに違いない。

アニメや漫画が大好きな子だからこそ、作品やキャラクター自体への愛情とかそれを愛するファンの熱意は痛いほどよく分かっているだろうし、そういうことに対してのリスペクトの心持だって惜しまないのがいーちゃんだから。

 

そしてそんな中で、シンプルなプレッシャーに付随する制御しきれない感情だけではない懸念事項が一つあった。

 

いーちゃんは ” 依鈴に喰われないだろうか ”………?

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最初は役に呑まれて食い潰されないかって怖くて、ちょっと目を背けたくなる自分がいた。怖かった。何が怖かったのかわからないけど、漠然と怖かった。

今回いーちゃんが演じる草摩依鈴という少女は、幼少期に両親から虐待を受け、心を閉ざした午の物の怪憑きだ。心の真髄に深い傷を負い、扉を閉ざした依鈴ちゃんが、その心根にどんな感情を抱えているのか・・・・役が心に沁みたとき、大好きな推しメンがどんな変移を魅せてくれるのか、それが良いものなのか、そうではないものなのか。

 

いろんな気持ちが入り乱れながら、それでもやっぱり新しいいーちゃんに会えることがただただ嬉しくて、10月6日 大手町三井ホールへ向かった。

 

そこから9日間のことを、私はたぶんこれから先も忘れることはないと思う。

 

 

空間と時空

 

今までいろんな機会に様々な舞台作品に触れてきた。規模の大小に関わらず。

その中でも類を見ないくらいに舞台セットが簡素だった。

 

いや、舞台上には何もなかった。そして、最後まで何も出てこなかった。

 

これは後から知ったことなのだけど、今回の舞台は主にアニメのほうが大筋であって、むしろフルバ未履修者としては漫画を一生懸命読み込むよりもアニメを視聴することが至極”手っ取り早かった”らしい。

それでも私はアニメからではなく、初手に漫画を読んでから舞台に巡り会ったことを後悔しない。なぜなら、ついこの間一生懸命紙で目にしたフルバの世界が目の前いっぱいに広がっていることに感動してしまったから。

 

正直漫画やアニメを舞台化するということは、言葉を選ばずに表現するとすれば「ちゃっちく」「しょぼく」感じさせてしまうことが多いように思う。特に原作が現実離れしているものであればあるほど。

最近は舞台でも映像やCGが多く織り込まれるようになったからこそ その印象を受けることが少なくなってきているのかもしれないけれど、異性に抱きつかれると憑かれている動物に変身してしまう、とか、人間離れした怪力、とか、そういうことを表現しようとするとどうしても「あらrrrrrr・・・・・」みたいなことになりかねない。個人的にはそういうのを目にしてしまうと急に冷めてしまうタイプの人間なので、そういう点ではかなりドキドキしながら初日公演の観劇に臨んだ。

 

だからこそ何もない舞台上で繰り広げられるフルバの世界は、一瞬たりとも目を離せない位に興味深くて、文字通りに怒涛の3時間だった。

 

ブロックのように様々な形をしたひな壇が今回唯一の”舞台装置”だったわけなんだけど、この縦横無尽に形と役割を変えるひな壇がとっても効果的で驚いた。

 

時に空間として床の間やテーブル、椅子、体育館のお立ち台、花壇、屋根の平部、夾が隠れ込む穴倉(これはアドリブの1つで登場した)の役割を担うし、

 

時空として登場人物たちがそのひな壇を挟んで対峙すると、その人物の心情を表する(対岸にいる相手役にはそのセリフを発する登場人物の心の声は聞こえていない、ということ)上で現実と非現実の境目になるし、客席中央に伸びた花道を縦断すれば、もはや場面転換なしの同時に場所が異なる場面を表すことだってできる。

 

場面転換に必要な時間も観客の集中力の間でさえも削ぎ落とした演出が斬新で、初日は目まぐるしく変化する時系列と物語の激動についていくことに必死だった。

そしてT字の舞台の周囲に配置された少し見上げるような高さ(この高さもまた絶妙で、対岸ブロックにいる観客の顔が 積まれたひな壇にちょうど隠れて見えなくなるような無駄のない高さになっていた)に配置された舞台から降ってくる言葉や演出、登場人物たちの凄まじいエネルギーで目がまわりそうになってしまった。

 

そういう無駄や隙のない演出が、まるで漫画がそのままアニメになり、それが舞台となって三次元に見えてくることの違和感を払拭してくれていたように感じた。

最初は目の前の物語に必死で頭がとことん疲弊したけれど、気づいたらその感覚が病みつきになっている自分がいた。

 

声の無い登場人物が、声を発し、目の前に立っている。動いている。

二次元が三次元になる。

 

それってシンプルにとってもすごいことだ。

 

 

永く愛されるということ

 

観劇回数を重ねていく中で、一つ、違和感を覚えた。

 

生徒会書記の倉木真知が同級生に詰められ、草摩由希のことを語る場面。

彼女は由希のことを「天然"の"人」と表した。

 

それを皮切りにいろいろなセリフが耳に引っかかるようになった。

 

主に真鍋のセリフだが

「忙しいんよ」

「大丈夫そ?」 等々…

 

はやり言葉…とまではいかずとも、日本語は時代と共に微細な変化をしている。

つい数年前まで使っていた言葉でも、今聞くと少し古臭いなんてことは珍しくない。

ら抜き言葉”や助詞の組み合わせといったところにもその変化は透けている。

数十年前の漫画を舞台として現世に放っていくにあたり、もしかするとそういう細かいけれど違和感としての言葉の突っかかりを少なくすることも脚本のこだわりなんだろうか。

 

フルバの主軸は年月がいくら流れようと不変で共通の魅力がある。人間は誰しもが誰かに必要とされたいし、恐らく多くの人間が誰かや何かを必要としながら生きている。そして、独りは怖い。時に。

一つにまとめきれないような数本の軸がこの物語には有って、その軸を彩る数々の登場人物の名セリフたちがどんなに時がながれようとも色あせない魅力としてフルバの根強い人気を支える一つになっている。

 

「最も売れた少女漫画」としてギネスブックに掲載もされているくらいに多く、広く、長く読み継がれ愛されているフルバ。そしてそのどの時代にも共通する人間としての悩み、生きづらさみたいなものへの”救い”の言葉があることも併せて、時代に合わせた日本語の変化を舞台中の言葉にも反映させることでどの時代にも順応できる作品としてフルバが褪せずに輝き続けていることができる理由の一つなのかもしれない。

 

 

彼女とカノジョ

 

「俺、リンのこと何も分かってなかったか____?」

 

本編に、そういう撥春のセリフがある。

 

私が今回の舞台で漠然と感じた恐怖。

たぶんそれは、私がリンちゃん……依鈴ちゃんのことをわかっていなかったからだ。

ただただ漆黒の闇の中に心を閉ざして生きる女の子。たった一筋の光だった同じ十二支の恋人を想って、ひたすら独りで呪いに立ち向かう子。

 

漫画で出会った依鈴ちゃんの心の内や本質、「譲れないもの」が何かわからなくて、ただただ黒く重い彼女の"キャラ"がいーちゃんに染み込むことで、彼女とカノジョが同化してしまうことを恐れた。

 

こう思ってしまっていたついこの間までの過去の自分は、まるで慊人みたいだ。

よく知りもせず、依鈴ちゃんの"どす黒さ"が撥春…ではなく、いーちゃんを食いつぶすと思い込んでしまっていた。

 

 

結果、それは取り越し苦労だった。

 

舞台期間中のとあるウェブインタビューで、いーちゃんはこんなことを語っていた。

 

=LOVE野口衣織「一期一会な気持ちになれることが楽しい」と演技に夢中 「普段やれない役柄を演じたい」と悪役に意欲も | ORICON NEWS

 

-自分ではなれないような心情や力強さ、人間性があるので、稽古中は感情を借りています。依鈴ちゃんの気持ちや感情を借りている時間がすごく愛おしくて、稽古を重ねるたびに「依鈴ちゃんが好きだな」と思います。

 

感情を借りながら自分の中にうまく依鈴ちゃんを同居させて 色をつけて 共存してるいーちゃん見てたらすっごく安心した気持ちで見守れて、期間中ずっとずっと幸せな気持ちだった。

キャストを変えて何度も再演しながら漫画やアニメを実写化することの面白さがここにはあって、ここまで視覚的に”正解”が出そろっていても、それぞれのキャストがそれぞれの解釈で役に手と心を差し伸べることで味が出る。演じる人の解釈によってにじみ出てくるその役の人柄も魅力も変わってくる。

 

初日、疲労でいっぱいだった私の心には、まだいーちゃんの中に生きる依鈴ちゃんが見えなかった。し、たぶんいーちゃん自身もかっちんこっちんだったから(笑)余裕はお互いになかった。

だからこそ、通って、何度も会いに行って、もっともっと中身とか周りに拡がるものを察知したいし拾い上げて、いーちゃんの中に居る依鈴ちゃんをもっと知りたいと思った。

 

 

依鈴ちゃんは本当に優しかった。びっくりするくらい。

 

いーちゃんの中に居る依鈴ちゃんは、私が思ってるよりずっとずっと優しくて、きっと十二支の中で誰よりも早い段階から"誰か"のことに目が向いてる女の子だった。

 

両親から受けた傷でさえ自分のせいにし、傷を庇ってくれた撥春のことを全力で愛し、例え自分に何も残らなくても撥春を"呪い"から解放してあげたいと願う____

 

依鈴ちゃんが透に弱さを差し出してるシーンが 回を重ねる事に素直で真っ直ぐで、たぶんいーちゃんが一番大切にしたい気持ちがシンプルに出てくる感じがして、苦しくて泣いた。

優しくて、優しすぎて、苦しくて泣いた。

「独りは怖い」「助けて」「助けて助けて」っていう叫びがすごくて、ガタガタ震えてて、そこを助けてくれた透って依鈴のなかでとっても"救い"だったんだなって思ったらたまらなくて。

 

これも通っていて 不意に別角度から観劇した時に気がついたことなのだけど、オープニングもちゃんと物語の一部だし、依鈴ちゃんは撥春以外に何を見てるのかなって気にしてたら透のことを追ってたのも分かって、最初の時点で既に伏線もあったんだな。ずっとどこかで助けて欲しかったのかな、誰かに。幼き日に両親から拒絶されて、愛されたかったよね。甘えたかったよね。赦されたかったよね…

 

心を許してからの依鈴ちゃんは透にとんでもねぇツンデレっぷりを発揮しててこれがまた激萌えポイントだったわけなのですが(大声)

 

十二支の由縁を透に説明しているシーンで、その絆に甘んじれば撥春と依鈴ちゃんはずっと近くに居られるのに、それでも自分の存在を棄てて撥春を解放してあげたいっていう想いがすごく真っ直ぐで。自分も撥春も解放されて お互いに愛し合えるような未来を 依鈴ちゃんももしかしたら望んで期待していたのもあったかもしれない。

語りのシーンでの挙動口調がとっても優しかったから、やっぱり依鈴ちゃんは脆くて弱くてとってもとっても優しい子なんだな。と。

あとこれは追記まがいの気づきなのだけど、依鈴ちゃんに胸ぐらを掴まれている時に 由希どんな顔してるのかなと気にしてみたら、びっくりするくらい動じてなくて、そっか由希は依鈴ちゃんが本心でアレコレ言ってない(一時は本心だとしても本質的に他人のために行動できる優しい子だって知ってる)って分かってるからあの挙動なんだな……となったりもして。

そういえばここの少し前のシーンで 由希が「幼い頃から依鈴は撥春を何かから守ってたんだろ?」と語りかけるところがあったっけ。

 

そういう依鈴ちゃんは始めからそこに眠っていたわけではなくて、いーちゃん自身の、いーちゃんの優しさであり、それが依鈴ちゃんと共鳴して 溶けて、あの演技になったのかなって思ったら 依鈴ちゃんがそこにいてくれる時間全てが急に尊くなってしまった。

 

で。

 

透に心を開いてから、とか、由希と言い合いしてたら大好きな撥春にも会ってしまったみたいなとき、とか、そういう"好きな人"に対して すぐに身体の前で手をモジモジさせたり袖をキュって掴んで目を背けたりする依鈴ちゃん、ナニ???激カワ????それは衣織ちゃんですか?依鈴ちゃんですかどっちですか????(真鍋風の早口捲し立て)

 

あとこの勢いのままに書きたいんですけど、

 

「俺はリンを望む。リンは俺を望まない?一緒にいたくない?」

っていうセリフのあとに撥春が依鈴ちゃんの腰に手回して引き寄せるのだけど、その時の依鈴ちゃん本当に"良い顔"しててすごかった…(すごかった)

アーカイブも販売されているのでまだ目にかかっていない方、ぜひ。依鈴ちゃんと撥春は早く幸せになれ。

 

 

役が生きる

 

同一カンパニーの同一作品を複数回公演通い詰めることの面白さは様々だ。

何かの特典目当てに通うこともあれば、本編後のアフタートーク見たさに通う人だっているだろう。今回の舞台で言えば何といっても草摩綾女、草摩はとり、草摩紫呉の3人衆が繰り広げる個性の強いアドリブたちがその目玉の一つであったことは間違いない。

 

 

もちろんそれらが大きな魅力だったが、個人的には日々変わりゆく依鈴ちゃんに会いに行くことが一番の目的であり面白さだった。

何度も言うが私は今回のアニメ未履修の状態で舞台に足を運んだ。

 

フルバ自体とても長い作品であり、その長さの中に名セリフ名シーンが多すぎるが故、時間の限られた舞台という場ではどうしてもハイライトになってしまう感が否めないという声を聞いた。大筋は大層なリスペクトの元で大切にされながらも、泣く泣くカットせざるを得なかった場面も多かっただろう。

 

依鈴ちゃんの場面も例外ではなく、基本的に依鈴ちゃんの登場する場面はメインどころが2幕に2か所だ。その2か所においても舞台上での時間の経過は目まぐるしくて、私が初見で想定していたよりずっと多くのシーンや時間が流れていることを舞台期間の半ばで知った。幼少期の回想のあとに草摩家の玄関で倒れており そこから依鈴ちゃんと透がやり取りしていくシーンにおいては、依鈴ちゃんが透のことをかつての母親と幻視して怯え慄く場面であったり、「お優しい人間はお優しい世界で生きていればいいんだ!」というセリフの細やかな前後にも たくさんのものが広がっているらしかったり。アニメであればもっともっとたくさんのシーンがあって、その間には確実に流れる時間があって。

 

舞台ではその飛び飛びなカットが繋ぎ合わさっているから、きっとアニメを見たことがある人は「あ、あのシーンはカットされたんだな」と気がつくだろうし、アニメを見ていない人はそれすら知り得ない。

 

そんな中でなぜ依鈴ちゃんは透にも扉を開けて心を許したのかということも、そこから年末年始のシーンにおいて急に透に対してバチくそツンデレみを発揮しているのかも、私の中ではいろんなものが繋がるまで少しだけ時間がかかった。

 

イコラブの曲においてもそうだけど、いーちゃんの表現の魅力は「すべてにおいて"幅"をもたせるとこと」「決めつけすぎないこと」だと思っている。

一度「こうしよう!」と決めた表現だって、何かの拍子に違う物語が流れて 表現が変わってきていたりする。私はそんないーちゃんのやり方が大好きで、そこが大きな魅力だと感じているんだけど、その姿勢が今回の舞台においても 依鈴ちゃんとその周りに流れる時間を止めることなく しっかり丁寧に汲んでいるからこそ、毎公演毎公演 「たまたまそのシーンで一番表に出てくる感情の濃度が変化していた」のかなと勝手思ってみたりした。

どういうことかっていったら、昨日はめちゃくちゃ親に対して絶望して虚脱していたのに、なんだか今日はそれよりも撥春のことが大好きで大切でたまらないんだろうな、みたいな感情表現の波があって、それを見ていて自分が運良くすくい上げられた時に 「あー、今日も見に来てよかったな」って思える瞬間になっていた。イコラブのライブを見ている時のなんだかちょっと似たような感覚だったかもしれない。

 

そんなこんなで通ううちに当然だけど他キャストの皆さんのことも大好きになってしまったし、愛着もわいてきて困った。

草摩綾女というキャラが自分の中で顕著なのだかど。最初は全く好きになれなくて 冷めきってる自分がアレを見るのも 痛くてキツかったけど、綾女役の方がしっかり演技ができる実力者なんだって分かってから 優美な所作とかメリハリにも気づけて 最後には綾女兄さんのことも好きになれて、とっても嬉しい。綾女役の仲田博喜さん、とっっても綺麗なお顔立ちをされた方で、それでいて役者としての力やコミカルさも持ち合わせているのならそれはあの人気っぷりも納得……

 

慊人役の彩凪翔さんは序盤から高すぎる舞台スキルに 宝塚としての凄さを感じて惚れ惚れしてしまった。

慊人の紅野に対するオンナ特有のじと〜っとした粘っこい感じと、由希や撥春に対する子どもじみた幼い感じと、紫呉やはとりに対する強がったヤンデレ具合と、全部演じ分けてる彩凪さんって本当にすっげぇ!と唸ってしまったし、総て同じ人なのに ちゃんと違う人格というように魅せられるパワーは素晴らしい才能だ。すごかった。本当に。

 

慊人というキャラも個人的には漫画で受けた印象とは随分異なる見方ができて楽しかった。全体のマインドコントローラーであるはずなのに、幼少期で総てが止まっている慊人は人の気持ちの本質が分からない…もしくは分かろうとしていない?のか…?と。一幕の終盤に別荘で夾を呼び出し「透のことが好きなのか」と問い詰めているけれど、夾が「絶対にあいつのことなんか好きじゃない」とかばう回答をしてもそれをしっかり真に受けるシーンが印象的だった。十二支を自分の動かない時間の中に閉じ込めることで傍に置き、拘束することで いろんなものから自分を護ろうとしていた。

そんな慊人の幼稚さがよりその行為思考をむごく、冷たく、救いようのないこととして描かれているのが怖かった。漫画を読んだだけでは感じられなかった気持ちが慊人に対して湧いた気がする。

 

 

これだから舞台は面白い。通うのを止められない。

そんなふうに思えた終盤は特に楽しくて、終わってしまうのが寂しく思えるくらいに惜しい気持ちで足を運んでいた。

 

あとこれは完全に余談なのだけど、依鈴ちゃん、黒コンとアイライン以外色がないメイクなんだけど、そのせいでなんだかちょっとスッピンっぽい幼いいーちゃんがカーテンコールでニコってしてくれるのが刺さってしんだ。尊い

 

 

 

 

 

 

いろいろ書き連ねてきたけれど、日々いーちゃんが全力で草摩依鈴を全うする姿を見ることができて、千秋楽公演の後には達成感に満ち溢れた顔で微笑んでいるのも見られて、自分が何もしてなくても勝手に幸せでいっぱいになってしまった。

 

フルバのお仕事来てくれて頑張ってやり切ってくれて本当に本当にありがとうって気持ちでこっちも満ち溢れてしまった。演技のお仕事に対しての誠実さがいろんなところに滲み出てて、今回のこのフルバのお仕事に関するいろんなものを摂取できることがとっても幸せだった。

 

楽日から周年まではたったの3日間しかないなかでのプレッシャーも不安も そういうのたくさんあっただろうけど、舞台のいーちゃんはいつでも堂々としていた。特に後半はセリフとセリフに間を持たせる余裕というか、舞台における"感覚"が良い働きをもたらしてくれるまでになっていた。そういうのも含めていつだって安心して全部を楽しみにできた。いーちゃん、強かったなぁ。本当に本当に強かった。

 

いろんなことを不安に思って、殻に盾籠ってしまういーちゃんはたぶんもう居ないし、今回だって図りしれないプレッシャーを消化して私たちファン側に感じさせないようにしっかりと耐えて見せてくれた。

 

「お疲れ様」と言ってみても「本当によく頑張ったね」と言ってみてもそんな言葉じゃ足りなくて。

だけどそれを超える日本語が生憎思いつかないからこそ、その言葉を一層心込めて伝えたいな。

 

いーちゃん、お疲れ様 本当によく頑張りました💮

 

 

 

本当の意味でプロのアイドルだなって節々から感じたし、正直ちょっとそれが寂しくもあった。

だけど、そうやって強く有ろうとしながら 実際に強くなっていくのもまた大切な成長だし、それを自分で制御できるいーちゃんはとっても偉い。

何年経っても見ていて飽きないし、私も自分の人生を頑張ろう、で、休みの日にはまたいーちゃんに イコラブに会いに行こうって思い続けられる。

 

 

もしもまた依鈴ちゃんに会えるなら

その時を生きるいーちゃんの中に居る依鈴ちゃんの"今"に触れられたらいいな。

 

またカノジョに会える日を楽しみに。

 

 

明日はイコラブの6回目のお誕生日!

びっくりするくらい大きなステージで、依鈴ちゃんとお別れしたいーちゃんはどんな笑顔を見せてくれるんだろう。

 

またね 依鈴ちゃん

出逢ってくれてありがとう🐴🌱